WordBench は誰のもの?

先日、WordBench がサービスを終了するというアナウンスがありました。

https://wordbench.org/2018/06/14/wordbench-is-closing/

このお知らせが発表される前に、WordBenchの行動規範が公開されました。

https://wordbench.org/2018/05/12/wordbench-code-of-conduct/

その行動規範の発表を受けて、行動規範とは一般的にどのようなものなのかをまとめつつ、その規範の決め方について提案をした私(@shinichin)の記事がこちらでした。

WordBench とはなんだったのか。 | Capital P

上記の記事はCapital Pに書いているのに、どうして今回は個人のブログなのかというと、先日信頼している人から「西川さんはそんなことないと思ってるかもしれないけど、Capital Pっていうのはメディアなわけで、それなりの信用もついてきているところにああいう記事が出ていると、『あ、なんかちゃんとしたところが言ってる!』って思われるんだよ。」ということを言われたからです。

その時に僕が言ったのは「たしかに影響力が高まるようにあそこで書いたけれども、それはそうしなければ誰も聞いてくれないように思ってたので、分かっててCapital Pに書いたんですよ!」ということでしたが、それでも「あのメディアで書いたら影響力が強すぎる」ということで、なるほどそうまで言うのであれば個人のブログに書くことににしようかな、と思った次第です。

この記事では、また懲りずに、まずは提案をして、そのあとでどうしてこの提案なのかを書いていきたいと思います。

目次

提案

僕からの提案は以下です。

では、どうしてこう思うのかを、長くなりますが以下に書きます。

「WordBench とはなんだったのか」に対する答えの更新

さて、件のCapital Pの記事のタイトルは「WordBenchとはなんだったのか」でした。「WordBenchはウェブサイトにすぎない」と公式サイトに書いてあるのを読んで、「え?そうだったの?」という気もちの現れとしてのタイトルです。また、そこで僕は「それはイベントである」ということを書きました。なのですが、この期間、色んな人の文章を読んだり、人と直接話したりしているうちに、どうもしっくりこない感じがしてきて、時間がたってピンとくるようになったことがあったので、WordBenchとはなんだったのか、更新された答えを書いてみたいと思います。

WordBenchとは、ウェブサイトではないし、オフラインイベントでもなく、WordBenchとはコミュニティーのことです。

分かってみたら当たり前のことです。

WordBenchという言葉があってロゴがあって、それらを見たときに想起されるのは、勉強会や懇親会といった活動であったり、その場に参加した一人ひとりの経験であったり、あるいはそこで出会った人たちの顔であったりすると思いますが、常にみんなに開かれていたこの総体のことを、人はコミュニティーと呼びます。WordBenchって聞いて何か思い浮かぶとしたらそれのことで、それはコミュニティーのことではないかと。

うしろに「WordBench 男木島」などと地名がついて、それがローカルコミュニティーになる、という仕組みもおもしろいです。地域ごとのイベントの名前でありながら、「WordBench [地名]から来た山田です」みたいに、所属している感じも出たりする。WordCampよりも小さい単位なだけに、身近な感じもするし、日本中で同じ名前が使われていて、つながりも感じられる、よいあり方ですね。

WordBench は誰のもの?

wordbench.org というドメイン名は三好さんのもので、創始したのも三好さん。ロゴはどなたが作ったのか知りませんが、投票で決まったそうです。ウェブサイト WordBench.org の管理者も、三好さんなのでしょう。

そもそものアイディアは、10年前のWordCamp Tokyo 2008の懇親会での話し合いから生まれたそうです。10年という時間はすごく長いもので、ひとつのウェブサイトがこれだけ長持ちするというのは、大変なことです。いろんな問題もあったことでしょうし、作業的な負荷も多かったことと思います。それを粛々と10年間やってきたということに対して、感謝もそうですが、人知れずやっていたということに対して畏怖の念のようなものがあります。

けれども、10年という時間がたった今、「WordBenchは誰のもの?」という問いに答えようとするとき、それが10年前と同じであるかどうかはよく考えてみないと見誤ります。

コミュニティーの持ち主が個人ということは、特にオープンソースのコミュニティーにおいては、その性質上ありえません。人間の集団やその人間たちの活動をそもそも所有することはできないし、少なくとも僕は誰かの持ち物であると思ってイベントをやったりスピーカーをしたりしてきた自覚は全くありません。

コミュニティーは、コミュニティーに参加している一人ひとりのものです。

各地の「WordBench ○○」を立ち上げた人、引き継いだ人、会場を探して予約して告知文を書いた人、部屋の入口にイベント名を書いた紙をはりつけて、来場した人たちを迎えて、前に立って「来てくれてありがとう。では始めます」と言った人、告知を手伝うためにブログを書いたりTweetしたり、知り合いに口コミで教えた人、会場を提供することを社内で話してくれたいろんな企業のいろんな人。セッションに登壇した人や参加者ももちろんそうですし、懇親会の予約をした人もそうだし、お会計で千円札を集めた人もそうです。家に帰ってから参加レポートを書いた人たちもです。新しいWordBenchが始まるというときに力を貸したり現地に行って盛り上げた人や、各地のWordBenchわぷーを作った人のことも忘れてはいけないです。

そういうコミュニティーがあったから、はじめての勉強会がWordBenchだった、はじめての登壇はWordBenchだった、友だちができた、教えてもらってウェブサイトを完成させられた、ウェブサービスができた、仕事に就けた、といった価値が起こったわけです。

この人たちがコミュニティーのメンバーであり、その活動がWordBenchを育ててきました。ひとつひとつの積み重ねが、コミュニティーの成長を進めてきて今に繋がっています。WordBenchは誰のものかというときに、所有ということがあり得るとしたら、創始者の人たちもそうだけれども、いろんな形で参加してきた人たちのものでもあります。

行動規範の決まり方について波紋が広がったのはなぜか

行動規範とは、ものすごくざっくりといえば、他者を排除したり攻撃したりさせない、誰かに居心地の悪い思いをさせないための、最低限のルールを決めた文言集で、もっと言ってしまえば、インクルーシブである、つまり「誰でも参加できる」ということを保証するための仕組みと言ってしまいたい。誰もが自分の居場所であるということを感じられるようにするために、それを邪魔する言動・行動を排除するための仕組みですね。

例の行動規範がポンと出たときに戸惑いの声や反対の声が広まったのにはいくつかの理由があったと思います。具体的な文言に対する疑義もありましたが、僕個人が特に感じたのは、その決まり方でした。自分がメンバーであるコミュニティーのルールが急に決まってふってきた、ついでにその中身にも疑問があってそれを事前に議論する時間も手続きもなかった、ということがショック。「全然参加できてない」というものです。

なので、その時の提案としては、

  • もう一回声を吸い上げる時間を作りたい
  • その上で作業チームを作って改訂版を作りたい

ということを挙げていました。自分たちの活動の方法について、自分たちの声も聞いてくれないか、ということでした。そのなかで自分の意見も言えればいいや、と。

今回も同じような話です。提案します、どう思いますか?という問いです。

それと、「やめることにしたので名前の利用はもうできません」と、これまで参加・貢献してきた人たちに言えるんでしたっけ?いきなり言っていいわけがないところまで育ってしまっていますよ、という問いでもあります。

今回の提案について

今回の提案、詳しくは上の方へ戻って読んでほしいですが、つまるところは「名前は残して、原則や運用はグローバルに合わせる」というものです。名前を残したほうがいいというのは、今までに築いてきたものを捨てることはないし、これから名前を変えてなんだかんだということをするのは作業コストが大きいし、なんならMeetupよりも歴史があるんだし、おもしろいし、みんな知ってる名前なんだから使えばいいのでは?ということです。

もう一つ言うと、これからもっといろいろできる可能性だってあると思います。現状を維持するだけじゃなくて、なんかおもしろいことがあるかもしれないのにもったいないじゃん、という気もしています。

ウェブサイトを残さなくていいと思うのは作業負荷や責任が集中しすぎて申し訳ないということです。ウェブサイトがあることでその管理者が発生してしまうという構造の問題を解消したらいいように思う、ということです。個人のプロジェクトとして始まったけれども、今回の経緯を見るに、個人としてその作業や責任を請け負うのは限界が来ているということの現れとしての一連の出来事だったのではないか、と思うからです。

グローバルに合わせるのはなぜかといえば、人材が豊富で責任を持ったり議論をしたりするための場や法人があり、そこをうまく利用するほうが楽になるという理由です。グローバルを利用せず、かつそこと同じようなメンバーや知見を揃える体力はないと思います。

議論の仕方について

一部の方はご存知かもしれませんが、僕はSlack において議論の旗振り役をやりましたが、失敗しました。炎上とは言わないまでも怖い雰囲気になりましたし、最後は僕も怒っていましたから最悪です。向いてなかったかな。がんばったけど無理でした。ごめんなさい。

そこでやろうとしていたのは、言いたいことがある人が言いたいことを言える場を用意して、なんだかんだ時間がかかるかもしれないけどなんとか集約して形にして、「考えたのでこれにアップデートしません?」という形で運営チームに出してみよう、ということでした。そもそも聞いてもらえるのかどうかも分かりませんでしたが、とりあえず動こう、と。

結局のところ、そうこうしているあいだに終了宣言が出て、行動規範改訂も御破算になりましたし、それまでに発言が全部拾えたかというとそんなこともなく、各地の人たちの発言が多かったとも言えず、とはいえあんな怖い場所に書き込んでくれるのを望むというのもそれは無理だろうということで、そういう失敗でした。

思ってることがある人へ

先日信頼しているある人(さっきからこのフレーズが出てますが、デジタルキューブの小賀さんです)が言ってたのは、みんな自分のブログで書けばいいじゃん、ということでした。思ってることがある人は別に書けばいいのでは、と。意見が違ってもいいから言いたいこと言っちゃえや、と。自分はこうしたらいいと思う、こうしたいという、これからのことを書いたらいいよ。そういうのがいろいろ出てきてなんとなく集約されればいいじゃん、と言われました。なるほどすぎますね。

別にブログじゃなくてもいいです。Slack参加方法)でもGitHubでも大丈夫ですし、Twitterとかでもいいかもしれないです。

どうせ自分の声なんて聞かれない、あるいは、発言するのが怖い、というのはよくないですよ。なぜよくないのかといえば、そういう雰囲気のコミュニティーなのだったら、WordBenchが残るにせよ残らないにせよ、遅かれ早かれ、先はないと思うからです。多様性と自発性のないところに未来は無いと思います。

運営チームの方々へ

上記の提案は僕の個人的な提案(Capital Pに書いたのものそうだったんだけど、今になって思えば書く場所間違えました。ごめんなさい)にすぎず、色んな人の声が集まって決まったことであれば当然受け入れますし、僕の思ってるところも変わるだろうなと思ってます。ディスカッションがオープンであることが保証されればいいや、ということです。自分の居場所のことを決めるのに参加できないのはいやだし、思ったことは言えるはずだ、ということです。わがままじゃないと思うし、そういう考え方しかできないし、それが当たり前だと思うので、誰か返事ください笑。

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